社長ブログ

ドバイ・インド視察1

2月11日から16日にわたって、石川県鉄工機電協会のインド経済使節団に加わって、ドバイとインドへ行ってきました。ドバイはインドのチェンナイへのトランジットで立ち寄ったものですが、12時間滞在していろいろと見物する事ができました。

昨年の10月に中国の上海と深圳で日本から進出した企業を2社見学しました。2社とも素晴らしい経営をされていましたが、もし中国進出をしなかったとしたら、この2社とも現在は非常に厳しい状況になっていると感じました。今後日本国内は空洞化が進み、仕事が減り、会社を維持することが困難になると思います。これからは常に海外を意識した経営していかねばならないと思ったのが、参加した理由です。

関西国際空港からドバイまで11時間のフライトです。ドバイはまさに夢の都市です。意表を突く形をした高層建築が立ち並んでいます。まず高さ321mで白い帆船の帆の形をした自称7つ星ホテル「バージュ・アル・アラブ」を見物に行きました。宿泊者しか入れないので、近くの海岸から眺めました。1泊25万円以上で、すべてスイートルームとの事。良くこんな高いホテルに泊まるお客がいるものだと感心します。

次いで高さ828mの世界1高い「ブルジュ・ハリファ」へ行きました。160階建てで、120階に展望台があります。韓国のサムスンが建設しました。70台以上のエレベーターはオーチス製でした。60階建てのビルが小さく見えます。見渡しますとまっ平らな砂漠で、緑は全くありません。現在有る植物はすべて根元にパイプを這わせ水を供給しています。

第2次大戦後独立したドバイは現首長の本家であるアブダビと共に,アラブ首長国連邦を形成しました。1960年に石油が発見され大きく発展しましたが、ドバイの石油は埋蔵量が少ないため、中間貿易や金融・観光に力を入れた結果現在のような発展を遂げました。ドバイには税金がなく、医療費や教育費も無料です。また成人すると家が1軒政府からもらえます。800万人の人口のうちドバイ人は100万人で、残りは出稼ぎに来ている外国人です。もちろん外国人にはこのような恩典は有りません。

外国人は出稼ぎに来ているので、職がなくなると国外撤去になります。ドバイでは酒を飲むことが禁止されているため、酒を飲んで騒ぐような事はありません。だから治安は日本より良いくらいです。ドバイには地震がなく、台風が来なくて雨が降らないから自然災害がほとんどありません。私たちが訪れた1・2月最も過ごしやすい季節で、7・8月になると気温が50度,湿度が100%になるそうです。

食料品はほとんど輸入で、建物や設備は海外からの輸入、そして実際に働くのは外国人です。ドバイ王家が代々支配し、選挙がありません。現在の発展は、砂上の楼閣のような印象を受けました。

経営の目的その1

2000年に日本創造教育研究所と出会い、かなり頻繁に研修を受けるようになりました。日創研にはTTコースのように良い研修がいくつもありますが、その中でも古永先生の実践ビジネススクールはとても勉強になりました。この研修は一月に2から3日の研修を、5ヶ月にわたって受けるものです。最初に財務を3日間勉強し、次いで社風・理念と戦略・中期経営計画・経営発表と勉強していきます。

最初に財務を勉強するのが味噌です。私は財務が全く分かりませんでした。財務の重要性を全く認識していなかったのです。損益計算書はなんとなくわかりますが、貸借対照表の意味がわかっていませんでした。財務を勉強して、こんな大事なものをわからずに今まで経営していたのかと愕然としました。今なら財務のわからない経営者は失格だと、自信を持って言えます。

実践ビジネススクールでは毎回講義の開始前に財務の試験を行います。試験結果は公開されます。昨年の問題や、違う場所での問題などが、受講生の間で飛び交い、前夜や向かう電車の中で、必死で勉強しました。その試験の中で次のような問題がありました。

設問 成長性分析では、下記の科目に関してどのような成長であれば良いとされているか、良い成長(バランス成長)順に並び替えなさい。

(科目)売上高、自己資本、付加価値高、人員、総資本、経常利益

さあ皆さんでしたら、どの項目を優先して経営されているでしょうか。私はこのような観点で経営を考えた事がありませんでした。何とか会社を大きくしたい、儲かる会社にしたいと思い、機械を入れれば売上が上がるだろうと、利益が上がらないのに無理に借金をして、機械を購入していました。機械を入れるとそれを動かす人が必要になり、どんどんと人を採用しました。しかし人が増えれば増えるほど管理が出来なくなり、後始末は全部自分にかかってきました。売上高を追い人員を増やし、総資本を増やす経営をしてきました。

渋沢栄一は1916年に「論語と算盤」を著し、道徳経済合一説を唱えました。私の理解ですが、経営には2つの側面があります。一つ目はこの社会に役に立つことです。二つ目はきちんと利益を上げて存続することです。この二つがきちんとかみ合わないと、存在する意味がありませんし、また存続できません。

算盤の面だけを言えば、企業の目的は少ない資本で大きな利益を上げる事です。そうする先ほどの設問の答えは次のとおりになります。

人員<総資本<売上高<付加価値<経常利益<自己資本

売上を追いかけるよりは、付加価値を付け経常利益を増やすべきです。税金を払った残りの当期利益が自己資本に追加されます。人を増やすなら、それ以上に付加価値が付かねばなりません。人は一旦雇えば辞めてもらうことは困難ですから、機械で代用できるものならば、人を雇うより機械を入れた方がよい訳です。

算盤については割りと理解が早いのですが、理解が困難なのは論語の面です。理念と言い換えたほうがよいと思います。私は10年以上理念を追い求めてきました。非常に奥が深く、どれだけ勉強してもきりがありません。重要なのは理念であって、算盤はそれを達成する手段といっても良いでしょう。理念についてはとても多くの面がありますので、またの機会に書きたいと思います。

Nさんの送別会

昨日Nさんの送別会がありました。Nさんは2009年の入社でしたが、結婚することになり退社されました。会社から車で10分くらいの居酒屋で社員が30人ほど集まり、にぎやかな送別会でした。

 

2008年の新卒採用で、Nさんを始め4人の方に入社内定を出しました。この年まで北陸地方は景気が良く、我々のような小さな鉄工所が、新卒を採用するのは非常に困難でした。男子学生の応募が少なく、男子は1名だけでしたが、女子に1名現場をやりたいという学生さんがいて、女子は計3名に内定を出しました。

弊社が4名もの新卒を、一挙に採用するのは始めての事です。仕事はたくさんあり、意気揚々としていました。そこへリーマンショックがきたのです。それまで中国バブルを警戒していましたが、アメリカが住宅バブルになっていたとは、全く気が付きませんでした。

これまでの不況は中央から地方に来るのには、タイムラグがありましたが、このリーマンショックは瞬時に我々に到達しました。見る見る売上が減り、12月には半分以下に落ち込みました。新聞では大手企業の内定取り消しが、紙上をにぎわしました。私もとても悩みましたが、そのような反道徳的なことはしないと決めました。

2010年の後半より景気は回復しだしました。この回復は急激で、この4人の新卒の方々にはよく貢献していただきました。このようにたった3年間を振り返っても、いろいろなことがありました。Nさんにとって卒業後初めて就職した会社での3年間は、忘れられない経験だったと思います。つらいことや楽しい事がたくさんあったと思います。つらい事のほうが多かったと思いますが、将来振りかえってみて、そのつらいことが自分を成長させたと、思ってもらえたら嬉しいと思っています。

今年の抱負

弊社では毎年仕事始めの日は、少し早く仕事を終えて、全員で今年の抱負を発表してもらっています。しかし年初に言った事を1年間覚えていることは出来ないので、今年は色紙に書いてもらうことにしまた。

そこで私も数十年ぶりに毛筆を買ってきて、色紙に書いてみました。実は私は小学生の時に書道を習っていたのです。親からそろばん塾へも行かされたのですが、逃げ回っていて、そろばんは全く上達しませんでした。しかし書道はなんとなく好きで、数年通いました。

しかし書いてみると、全く上手くかけません。年なのでしょうか手が震えて、文字ががたがたです。何度も練習して何とか書き上げました。「新規事業に挑戦する」と書きました。

「本業を続けるな、しかし本業を離れるな」と教えてもらった事があります。「同じ事を続けていると、そのうちにだめになってしまう、現在の事業が順調なうちに、次の事業を見つけなさい。しかし大きく離れてはいけませんよ」といった意味のことだと思います。

最初弊社はプレス加工でスタートしました。プレス機を増やし、シャーリングを買い、金型製作も行い、少しずつ業容を拡大してきました。しかし1992年のバブル崩壊と共に、プレスの仕事は大きく減少しました。その後板金の部門に参入し、現在では売上の割合は、板金が8割でプレスが2割となっております。もし板金の分野に参入していなかったら、現在弊社は存在していないと思います。

2008年のリーマンショックで売上が半分以下になり、2010年後半より持ち直し、2011年は良い年になると思ったら、東日本大震災や、タイの大洪水、そして極端な円高です。弊社の最大のお客様は繊維機械を製作する会社で、全世界に販売していますが、この半年で弊社への発注量は半分になってしまいました。

製造業にとってこの円高はかなり問題です。日本は原材料を輸入して、海外へ製品を輸出して成り立っている国です。75円にも達するような円高では、海外のメーカーに対して、価格では競争できなくなります。日本のメーカーはますます海外で生産するようになるでしょう。大手メーカーは海外へ行けるかもしれませんが、我々のような中小企業は困難です。

本業をこのまま続けていけば、ジリ貧になっていくのは間違いないと思います。なんとしてでも新規事業に挑戦しなければなりません。人口が減少していく日本において、今後成長する分野は限られています。IT、エネルギー、環境、医療、福祉、航空機などでしょう。航空機はボーイング787の生産がスタートし、三菱のリージョナルジェット機の計画もあります。今後伸びていくことは間違いないでしょう。また日本にあった産業だと思います。

私はかつてたった3年間ですが、航空機会社に勤めていた事があります。昨年秋に同期に入社した者の同窓会が有りました。そのときの仲間から航空機産業への参入を強く勧められました。航空機はとても技術レベルが高く、面白い仕事です。しかし参入には多くの困難が予想されます。参入が可能かどうか調査し、じっくりと見極めてゆきたいと思っております。

100km歩行大会

四年前から100km歩行大会に参加しています。きっかけはある勉強会の友人であるTさんから誘われた事からでした。正直100km歩く事に、何の意義があるのか、さっぱりわかりませんでしたが、熱心に誘われたので、軽い乗りで参加することにしました。

最初の大会では私は100kmを完歩しようとは、思ってはいませんでした。50か60km歩ければよいと考えていました。Tさんが前年の大会では、50kmでリタイアした事を知っていたので、それ以上歩ければTさんに顔が立つと考えていたのです。

一緒に歩いてくれる人を社内で募集しました。こんな苦しい事に参加する人などイルとは思っていませんでしたが、なんと3人の応募が有りました。62歳のTさんと31歳のI君と27歳のS君です。出発地は愛知県安城市で、8時に出発し伊良湖岬の先端を目指しました。

50kmあたりまでは何とか順調でしたが、そこから先が苦闘の始まりでした。腰が痛くなり、すねが痛くなり、ふくらはぎが痛くなり、足の裏が痛くなり、最後には脚全部が痛くなりました。一歩あるくのがつらく、痛みとの長い戦いになりました。

27歳と31歳の若者組みと、58歳と61歳の年寄り組みの、体力の差はいかんともしがたく、だんだんと差が開いていきます。途中で待ってくれているのですが、すぐに差が開きます。年寄り組みの惨状を見兼ねたのでしょうか、若者組みが年寄り組みの脚を揉んでくれると言うのです。

自分は体がひどくて他人を気遣うどころでないのに、彼らは自分の休憩時間を潰して、仲間を助けようとしているのです。私は大変驚きましたが、素直にしてもらう事にしました。

私と若者組みとの決定的な差は、私は50か60km歩ければよいと思っていたのに、彼らは100kmを歩ききるぞとの、強い意思を持っていたのです。

私は100km歩くことの意義が、少し分かったような気がしました。単にゴールに到着することが目的ではなく、高い目標を持ち、仲間と助け合って、共に努力することが100km歩行の目的ではないでしょうか。

28時間25分で4名そろってゴールできた時、嬉しくて涙が出ました。こんな感動は私の人生の中でもそう多くはありません。つらく苦しかった分、喜びも大きかったのだと思います。

翌年は七尾から小松までの100km歩行大会に参加しましました。弊社からの参加者は少し増えて7名となりました。昨年のメンバー4人にプラスして、32歳のT君、26歳のK君、24歳のH君です。皆体力自慢の若者ばかりですから、快調に飛ばせると思っていましたが、100kmはそう問屋はおろしません。

45kmを過ぎたあたりから、K君の様子がおかしくなりました。靴が合わず、足の裏に大きなマメを造り、痛みのため極端にペースが落ちてしまったのです。TさんとK君には先に行ってもらい、5人で55kmのチェックポイントを目指しました。しかしチェックポイント数km手前でタイムアップとなり、収容車に乗せられてしまいました。

この時点で我々5人はリタイアです。チェックポイントでK君の手当てをし、車で帰ってもらいました。残った4人はこれからどうするのか話し合いましたが、真夜中で電車もバスもありません。そこでリタイアしたけれど、ゴールを目指すことにしました。

ここから我々4人の快進撃が始まったのです。充分に休んだ事もあって、驚異的なペースで、休憩所でもほとんど休まずに歩き続けました。80km地点では先行していたTさんやK君にも追いつき、制限時間内にゴールすることが出来ました。完歩ではありませんが、私たちは完歩と同様の達成感を得る事ができました。

翌日の朝礼で参加者に100kmの感想を発表してもらいました。リタイアしたK君は、自分の準備不足でみんなをリタイアさせて済まないと言いました。その次に発言したS君は、K君はリタイアしていない、最後まで歩こうとしていた、と発言したのです。私はS君のこの発言に感動しました。こんな発言が出来るS君をかっこいいと思いました。

さて2年前の歩行大会もさまざまなドラマがありました。さらに4名増えて11名での挑戦です。100km歩行委員会を立ち上げ、3回の合同練習を実施しました。リタイアは1名だけでしたが、その内容は波乱に富んだものでした。

女性ではただ1名参加のYさんがギブアップ寸前で、I君が荷物を持ってあげました。新入社員のF君もいつリタイアしてもおかしくない状況で、T君が荷物を持ってあげました。これまで3回完歩のTさんが90km地点で足に故障が出て、杖を突きやっと歩く状態です。元気なI君がYさんの荷物に加えて、Tさんの荷物も持ってくれました。

トラブルが続きましたが、みんなの協力で10人そろってゴールする事ができました。私は100kmを歩ききる事はできたのですが、他人の荷物を持つなどと、自分から言い出す事ができず、とても悔しい思いをしました。

さて昨年の100kmですが、さらに2名増えて13人での挑戦になりました。また他に4名がボランティアとして、大会運営に参加しました。今回も合計3回全員で練習したのに、あまり成績は良くありませんでした。47km地点で1人脱落、58km地点で3名脱落、89km地点で4名タイムアップとなり、ゴールできたのは5名だけでした。

私は4回100kmに挑戦しましたが、いずれの大会もつらく、経験を積んだから慣れるといったものではありません。しかし100kmという大きな目標にチャレンジすることは、仕事や人生のチャレンジにもつながります。仕事や人生の目標は、ある意味100kmより大きく困難です。またつらく苦しい経験を共にした仲間には、強い連帯感が生まれます。意義が分からず始めた100kmですが、今は大きな意義を感じています。